江戸時代より諸国を回檀。各地に遺る勘太夫の神楽墓

一年を旅に生きる大神楽師は旅先で生涯を終える事も多く、墓碑も現地で建てられた。これを“神楽墓”と呼ぶ。滋賀県米原市には寛政11年(1799年)に建てられた山本勘太夫の神楽墓があり、近隣の村には「山本勘太夫が剣三番叟を失敗し、剣が喉元に突き刺さり当地で死亡した」との伝承が残っている。また、文化13年(1816年)の古文書「連中取締之事」において、太夫村より諸国を巡る大神楽として山本源太夫らと共に既にその名が確認できるなど、長い歴史を持つ家元である。

伊勢大神楽 山本勘太夫 獅子舞伊勢大神楽 山本勘太夫 獅子舞

幻の山本勘太夫山本粂吉

近世まで活動を続けてきた山本勘太夫社中は、明治30年、当時の勘太夫(直江)が若くして急逝した際、跡継ぎである粂吉が幼年の為、活動休止を余儀なくされた。勘太夫復活を目指し他社中で修行を続けた粂吉であるが、結果、復活は果たせず生涯を通じ各社中を渡り歩く身となった。しかし神楽師生活の晩年、伊勢大神楽講社より当時廃業危機にあった佐々木金太夫社中を任された事が後に大きな転機となる。

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約70年ぶり、山本勘太夫社中の復活

粂吉亡き後も、子である仁一郎、孫にあたる哲夫が佐々木金太夫社中に入門する。若くして才能を認められた哲夫は、昭和46年に伊勢大神楽講社の全面的な支援により山本勘太夫を襲名するに至った。他に廃業した家元である旧加藤孫太夫・旧森本長太夫・旧伊藤森蔵・旧加藤源太夫(責任者:廣瀬文太)の檀那場を一部引き継ぎ現在に至る。長い歴史を持つ家元でありながら一度廃業を経験した事により「同じ大神楽をするのなら、人様に喜ばれる大神楽をする」を新たな社訓に掲げ、時代に合わせた大神楽の在り方を追求し続けた。

伊勢大神楽 山本勘太夫 獅子舞
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温故知新、当代山本勘太夫の躍進

その後、平成20年より入門した真也が、昭和50年代より後継者不在で演じられる事のなかった放下芸“手毬の曲”を習得するなど数々の滅びた演目を現代に蘇らせた。また伊勢大神楽の来訪が途絶えていた全国各地の檀那場へ足を運び多くの回檀・総舞を復活させた。それらの実績が認められ平成26年より勘太夫を襲名し、さらなる芸能の発展に力を注いでいる。

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平成29年正月にはNHKにて勘太夫社中の一年を特集したドキュメンタリー疾走!神楽男子が放送されるなど、4年連続でNHKのTV放送にも出演。近年は上方落語の祭典いけだ落語うぃーくに出演し落語の舞台に上がるなど、伊勢大神楽の世界を越えて幅広い活動を行っている。

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令和元年5月には大阪城にて行われた新天皇御即位記念の祝賀行事へ招聘。また同年6月には大韓民国で開催された世界的芸術祭“世界芸術ヴィエンナーレ2019”に日本代表として招聘。帰国直後には大阪府にて開催された主要国・新興国首脳会議G20にて開催国日本の芸能文化の一つとして招待されるなど、あらゆる国際的催事から招聘を受け参加した。近年は一年を掛け西日本の回檀を行いつつ、日本全国で公演活動を行うなど新たな時代に合わせた旅を続けている。

 

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