Profile
山本勘太夫Kandayu Yamamoto
加藤菊太夫Kikudayu Kato
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江戸 1603 - 1868
掃部Kamon
直九郎Naokurō
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明治 1868 - 1912
直江Naoe, -1897
粂吉Kumekichi,
1880-1952
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大正 1912 - 1926
仁一郎Niiichirō,
1914-1982
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昭和 1926 - 1989
哲夫Tetsuo, 1946-

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平成 1989 -
真也Shinya, 1986-

江戸時代より諸国を回檀。各地に遺る勘太夫の神楽墓
一年を旅に生きる大神楽師は旅先で生涯を終える事も多く、墓碑も現地で建てられました。これを“神楽墓”と呼びます。滋賀県米原市には寛政11年(1799年)に建てられた山本勘太夫の神楽墓があり、近隣の村には「山本勘太夫が剣三番叟を失敗し、剣が喉元に突き刺さり当地で死亡した」との伝承が残っており、現在でも当地で供養が続けられています。また、文化13年(1816年)の古文書「連中取締之事」には太夫村より諸国を巡る大神楽の家元として既にその名が確認できるなど、最古参の歴史を持つ家元のひとつです。
幻の山本勘太夫“山本粂吉”
近世まで活動を続けてきた山本勘太夫社中は、明治30年、当時の勘太夫(直江)が若くして急逝した際、跡継ぎである粂吉が幼年の為、活動休止を余儀なくされました。勘太夫社中の復活を目指し他社中に修行へ出向き旅を続けた粂吉ですが、結果、復活は果たせず生涯を通じ各社中を渡り歩く身となりました。しかし神楽師生活の晩年、伊勢大神楽講社より当時廃業危機にあった佐々木金太夫社中を任された事が後に大きな転機となります。
約70年ぶり、昭和時代に山本勘太夫復活
粂吉亡き後も、子である仁一郎、孫にあたる哲夫が佐々木金太夫社中に入門します。若くして才能を認められた哲夫は、昭和46年に伊勢大神楽講社の全面的な支援により70年の時を経て山本勘太夫を襲名します。また、他の家元である旧加藤孫太夫・旧森本長太夫・旧伊藤森蔵・旧加藤源太夫(責任者:廣瀬文太)の檀那場を一部引き継ぎ新時代の山本勘太夫社中が出来上がります。長い歴史を持つ家元でありながら一度廃業を経験した事により「同じ大神楽をするのなら、人様に喜ばれる大神楽をする」を新たな社訓に掲げ、哲夫は時代に合わせた大神楽の在り方を追求し走り出します。
温故知新、当代山本勘太夫の躍進
その後、平成20年より入門した真也が、昭和50年代より後継者不在で演じられる事のなかった放下芸“手毬の曲”の習得に挑戦し3年で復活させるなど数々の滅びた演目を現代に蘇らせます。また伊勢大神楽の来訪が途絶えていた全国各地の檀那場へ足を運び多くの回檀・総舞を復活さます。それらの実績が認められ平成26年より勘太夫を襲名し、さらなる芸能の発展に力を注いでいく事となります。
全国での公演活動、そして海外へ。
平成29年正月にはNHKにて勘太夫社中の一年を特集したドキュメンタリー“疾走!神楽男子”が放送されるなど、4年連続でNHKのTV放送にも出演。 令和元年5月には大阪城にて行われた新天皇御即位記念の祝賀行事へ招聘。また同年6月には大韓民国で開催された世界的芸術祭“世界芸術ヴィエンナーレ2019”に日本代表として招聘。帰国直後には大阪府にて開催された主要国・新興国首脳会議G20にて開催国日本の芸能文化の一つとして招待されるなど、あらゆる国際的催事から招聘を受け参加するようになります。
血縁による世襲制度を廃止。門弟よりもう一人の太夫が誕生。
その後、少子高齢化時代の到来や新型コロナウィルスの流行など社会の変化の影響を受けた事で、令和4年、真也は新時代に伊勢大神楽を遺すべく伊勢大神楽における世襲制度の廃止や法人化など業界の大幅な変革に着手し始めます。 令和5年末より大神楽師免許制度を導入し、血縁ではない一般入門者の門弟たちにも門戸を開きます。また、その制度を受け家元以外の門弟から大神楽における職位の最高位である“太鼓打ち“として10年以上に渡り活躍をしていた指吸長春が新たに山本春太夫を襲名しました。
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江戸 1603 - 1868
菊太Kikuta
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明治 1868 - 1912
伝三郎Denzaburō
時治Tokiji
平佐Heiza

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大正 1912 - 1926
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昭和 1926 - 1989
將Masaru

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平成 1989 -
直樹Naoki

最も新しい社中として産声を上げる
加藤菊太夫は伊勢大神楽講社の歴史において最も新しい社中です。 社中の起こりは江戸後期。12家の内2家が廃業し近代化による衰退が始まる頃、旧加藤孫太夫(※ 昭和中期まで活動し廃業)から分家として独立し、廃業した岡田忠太夫社中の檀那場を引き継ぐ新組として産声をあげます。 初代は加藤孫太夫の息子である菊太(きくた)。かつては子が勘太、菊太、源太など字足らずを名乗り、先代太夫の引退と共に太夫名を襲名するのが習わしでした。
一度途絶えた名跡、伊勢大神楽講社への復帰と再興
明治期に入ると二代目の伝三郎が檀家先である鳥取県西伯郡南部町へ移住し、因伯支部を名乗り伊勢大神楽講社から独立します。 その後一度は名跡が途絶え、当地の士族である松尾家が活動を引き継ぎ『松尾太神楽』を名乗るなどして歴史を繋いでいき四代目時治・平佐兄弟の代で鳥取を拠点にしたまま、伊勢大神楽講社へと復帰を果たします。時治は加藤菊太夫再興の象徴として、また弟の平佐は宗家山本源太夫へ指導者として移籍するなど、近代伊勢大神楽が県指定・国指定重要無形文化財を受けるにあたり、陰ながら大きな貢献を果たしました。
歴代屈指の完成度”五代目將”、数々の人気を獲得
その後、昭和後期から平成に掛け五代目將が舞・放下・拍子など大神楽師におけるあらゆる技術において、屈指の完成度を見せた事で関東の若者たちが多数入門を果たし、2000年代、伊勢大神楽講社において最も総舞・公演数の多い社中として大変な人気を得ました。
幾度の困難を乗り越え、新生”加藤菊太夫”の復活へ
しかし平成の後期より跡継ぎ無き將の高齢化に伴い、若手たちの他社中への移籍が活性化し令和4年12月、加藤菊太夫社中は廃業となりますが、同じ家元である山本勘太夫(真也)がかつて加藤菊太夫社中での修行を経験しており、將より「お前のような真剣な若者なら、すぐにでも引退して後継者として育てたい」と若手時代に高い評価を受けていた事から、社中再興に乗り出す事になります。 令和5年より山本勘太夫より指名を受け、將の甥にあたる直樹が初代菊太の名を襲名し社団法人直営の社中として再び動き出し、再興に向けた道を歩み続けています。