
五代目加藤菊太夫の甥として鳥取県米子市にて生まれる。叔父は加藤菊太夫、祖父は四代目加藤菊太夫、そして父親も大神楽師。伊勢大神楽の家元の家系に生を享けた加藤菊太(本名:直樹)だが、一年を旅暮らしに生きる大神楽師の息子であることから、父親や叔父たちと生活を共にする時間は決して多くはなかった。

高校在学中、旅から帰ってきた父親から「今度、夏に新潟の佐渡島へ渡って地域との交流行事をする。一度、伊勢大神楽がどんなものか見に来ないか?」と誘われ、そこで初めて本格的に地域と伊勢大神楽の交流する姿を目にする事となる。佐渡島に滞在した期間には、先輩の大神楽師に放下芸の道具を触らせて貰い、自身も毎日稽古をする内に徐々にコツをつかむ。僅かでも少しずつ上達していく自分を見て「学生生活より大神楽師の旅の方が楽しいかもしれない。これなら、卒業を待たず旅に加わりたい」と直感し高校退学と同時に加藤菊太夫社中への入門を志す。

菊太(直樹)が入門した2000年代、加藤菊太夫社中には関東から入門した才能ある若手たちが一挙に集まり最盛期を迎えていた。二度の韓国公演や全国各地の総舞に招聘されるなど社中の最盛期と言われる時期を過ごしたが、自身も同じ時代を若手神楽師として駆け抜けていった。その後2015年には伊勢大神楽の宗家である山本源太夫社中へと移籍し、約7年間の長期に渡り外様修行を経験。そして2022年、山本勘太夫の要請を受け、家元の高齢化・後継者不在から同年内での廃業が決まった古巣、加藤菊太夫社中の主たる大神楽師として社中に復帰する事となった。

先代加藤菊太夫は晩年に山本勘太夫にこんな話をしたという「若手時代の時のお前のような若者(7年で伊勢大神楽八舞八曲十六神楽を修得)がうちにいれば、後を任せてすぐにでも引退する。でも大神楽師として未熟なものに任せる事はできない。ただ、誰もいないのなら血縁しかいないだろう。ただ半人前に太夫の名は継がせない」山本勘太夫は自身も太夫である事から菊太夫の言葉に理想と現実の葛藤をみたという。
そして明治期の制度にならい、菊太(直樹)に大神楽師名に関する提案をする。
「貴方は本来は血縁として後継者となるべき存在だが、ご自身で仰るように大神楽師として完成した人間ではない。もちろん大神楽の達人である”太夫(たゆう)”は襲名させられない。だが加藤菊太夫の歴史は江戸後期、分家ながら将来の太夫を目指す初代 加藤菊太(きくた)の旅から始まっている。ここで先代は廃業し新体制の主たる大神楽師として再出発。だから貴方も二代目菊太を名乗り、初心に帰り一から旅を始めるのはどうか。」と本名でも太夫名でもなく初代の名を継ぐことを提案したのである。

菊太は自身も放下芸や囃子方の修得を始め、座学に至るまでまだまだ多くの課題を残している。まずは自身の成長と新たな世代の育成、それを支えて下さる地方の方々との信頼関係。疎かにできるもなは一つとしてなく、多忙な旅を続けているが「入門当時の2000年代、加藤菊太夫社中は公演や総舞で大変な人気があった。少しずつ技術力を伸ばして、またそんな時代が来るように助け合いながら頑張っていきたい。」と前を向いている。

大神楽師(放下師/法人理事) 加藤菊太 1984年生まれ
Kikuta Kato
▽令和4年 一般社団法人設立時の所信表明や、加藤菊太夫の歴史について
